大願寺

厳島神社を守護する「大願寺」
大願寺と呼ばれる寺院は、日本各地にありますが、宮島の大願寺の正式な呼び名は、「亀居山方光院大願寺」(ききよざんほうこういんだいがんじ)と称します。亀居山は、千畳閣と五重塔が建立する小高い丘・塔の岡の旧称と云われています。また、大願寺の大願には、厳島神社を守護するという意味があり、厳島神社と深い関わりのある寺院です。

大願寺の由来
大願寺の開基は不明ですが、鎌倉時代・建仁年間の1201~1203年頃、僧の了海(りょうかい)により再興されたと云われる真言宗の古刹です。明治元年(1868)に神仏分離令が施行されるまでは、大願時は嚴島神社の普請奉行でありまた、筥崎宮(はこざきぐう)や宇佐八幡宮など多くの寺院の修理や造営を一手に担っていました。大願寺は、全国を托鉢(たくはつ)する許可をもっていたため、修繕で得た費用はそちらに当てていたものと思われます。

亀居山は、千畳閣や五重塔がある岡一帯の海に突き出た場所にあり、空から見ると亀の形に似ていることが由来になり、その名が付いたといわれています。東側の塔の岡から西側の多宝塔、経の尾近辺までが大願寺の境内地であり、厳島伽藍(いつくしまがらん)と称されて、多くの堂塔が建っていました。大願寺は、千畳閣・五重塔・多宝塔などから形成される厳島伽藍の中心となっていたのです。

僧坊として用いられた場所が現在は、本堂として使用されています。元々本堂は、大経堂である千畳閣の予定でしたが、豊臣秀吉が建築中に亡くなったため、建物が完成されず変更になりました。参拝者は大鳥居をくぐると、大願寺に近い砂浜に行き、大願寺裏に設けられた大風呂で身を清めた後、僧坊で休憩し着替えてから、嚴島神社にお参りしていました。嚴島神社の出口は唐破風造りになっており、昔はここが入口であったと推察できます。

戦国時代の天文7年(1538)、尊海上人が大内義隆の援助を受けて、高麗版大蔵経を輸入するため、当時の李朝・朝鮮国に渡りました。この時に書かれた日記が、大願寺所蔵の瀟湘八景(しょうしょうはっけい)屏風の裏面に記録されています。「尊海渡海日記」と名付けられたこの日記は、当時の朝鮮国の様子がわかる貴重な資料として国の重要文化財に指定されました。

江戸時代末期の慶応2年(1866)、第二次長州戦争が起こった際には、幕府方の勝海舟と長州藩の広沢真臣(ひろさわさねおみ)らが、ここ本堂奥にある書院で、講和会議をしたことでも知られています。

明治時代、パリ万国博覧会が開催され、本堂軒下にはその時に出展された、錦帯橋(きんたいきよう)の1⁄25の模型が架けられています。境内には、伊藤博文が手植えしたとされる、1本の木が9本に分かれている珍しい「九本松」があり目を引きます。

また、明治時代に焼失した護摩堂が平成18(2006)年4月に、140年ぶりに再建されました。一丈六尺(4m)の高さがある総白檀の本尊不動明王半迦座像の開眼式(かいげんしき)が、同時期に執り行われています。

 

大願寺のご本尊・主尊
ご本尊は釈迦如来、主尊は厳島弁財天になります。宗派は真言宗で、参拝の際は御真言の「なうまくさんまんだ ぼだなんばく」と唱えます。

大願寺の仏像
国の重要文化財である仏像が、本堂に四体鎮座しています。その中のひとつ木像の薬師如来坐像は、弘法大師の作といわれ宮島に現存する仏像の中で最も古く重要文化財にも指定されています。また、神仏分離令により千畳閣から移された、ご本尊・釈迦如来坐像とその両脇を守る阿難尊者像(あなんそんじゃぞう)・迦葉尊者像(かしょうそんじゃぞう)は行基の作と伝えられています。

五重塔からは、釈迦如来座像・文殊菩薩(もんじゅぼさつ)・普賢菩薩(ふげんぼさつ)の三尊像が移されました。多宝塔の本尊だった薬師如来像や護摩堂の本尊だった如意輪観世音菩薩なども収蔵されています。

また、本堂の正面手前には、賓頭盧尊者(ひんずるそんじゃ)が鎮座し、通称「なで仏」として人々に親しまれる身近な仏様が鎮座しています。身体の痛い箇所をなでれば治りが早くなると云われ、仕事でよく使う手や足をなでれば疲れが取れやすいとされています。

 

大願寺で最もパワーがある厳島弁財天
大願寺の主尊・厳島弁財天は、弘法大師・空海の作と伝えられ、当時相模国(さがみのくに)、現在の鎌倉の江ノ島と、当時近江国(おうみのくに)の琵琶湖にある竹生島とともに、日本三大弁財天の一つに数えられています。毎年6月17日に行われる厳島弁財天大祭で、年に一度御開帳され、この日は一般の参拝者も弁財天を拝観することができます。厳島弁財天は、嚴島神社の御本殿に神仏分離令までお祀りしていたため、それまでは拝観が出来なかったと思われます。

秘仏弁財天は、8つの手にそれぞれ武器を持つ軍神の女神の姿をしています。神仏習合の時代は嚴島神社の主祭神・市杵島姫令と、仏教の弁財天は同一視されていました。境内の池の中には、弁財天の使いとされる厳島龍神がお祀りされ、お願いごとを弁財天に取次いでいただけるとされています。

大願寺の見どころ
本堂
主尊の厳島弁財天像を安置する本堂は、約200年前の江戸時代、文化12年(1815年)に造営された建物です。本堂には、客殿、仏間、台所、居間などが混在する珍しい造りで、部屋数が17もあり全国屈指の規模を誇ります。創建当初、別の場所には書院が建てられていたそうです。正面から見ると左半分が畳敷きの方丈(居間)になっており、日本最大の方丈と云われています。

護摩堂
明治時代はじめの神仏分離令で損失した護摩堂が平成18年(2006年)4月に、 約140年ぶりに再建されました。天井部分が吹き抜けになっており、数本の桔木(はねぎ)丸太が組み込まれているのが特徴です。

そして、この護摩堂には坐像姿で高さ約4mの巨大な不動明王像が祀られています。別名「厳島大仏」ともいわれ、仏が宿るとされる香木・白檀(びゃくだん)は最高級と云われる入手困難なインド産で、約20トン使用して制作されました。インドから日本に到着するまで約7年、さらにそれから約7年もの歳月を経て完成したそうです。

九本松
初代総理大臣・伊藤博文によって手植えされた黒松は1本の木の根元から9本に松が広がっています。その姿から九本松と呼ばれ、樹高は30m、幹周は3.6mあります。珍しい黒松は、廿日市市の天然記念物に指定されています。離れてみればまるでヤマトノオロチのようにも見え迫力のある佇まいです。

厳島龍神
護摩堂の手前に大きな石ころと水堀に囲まれた庭園のような場所に、覆屋(おおいや)風の小さな社があります。この社は「厳島龍神」と呼ばれる龍神をお祀りする神社になります。弁財天の神使(しんし)であり、水の神でもある龍神は火難除けや、弁財天絡みの財運や開運など双方のご利益があるといわれています。

「瀟湘八景・尊海渡海日記」屏風
天文6年~8年(1537年~39年)、大内義隆の斡旋によって、大願寺の尊海上人が高麗版大蔵経を輸入するため朝鮮半島へ渡った時の記録が、高麗の八曲屏風の裏に書きつけてあります。表の湘瀟八景の墨画も15世紀の朝鮮絵画として大変貴重なもので、国の重要美術品に指定されています。

 

まとめ
日本三大弁財天の一つとして有名な「厳島弁財天」。毎年6月17日に行われる大祭で御開帳され、一般の人も秘仏を拝観できる貴重なこの日に合わせ、宮島を訪れる観光客が一気に多くなるそうです。境内では存在感のある九本松や、護摩堂の不動明王像や龍神などパワースポットも満載です。厳島神社からも近い大願寺に、宮島へお越しの際はぜひ足を伸ばしてみませんか。

 

ライターネーム/サクヤ凛

 

基本情報
所在地:〒739-0588 広島県廿日市市宮島町3番地
TEL:0829-44-0179
FAX:0829-44-0272
アクセス:JR「宮島口駅」下車、航路にて10分、宮島桟橋より徒歩15分、厳島神社廻廊出口横
開門時間:8:30〜17:00 年中無休
料 金:無料
見学・所要時間:約30分

 

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